昭和44年04月05日 夜の御理解



 信心を段々さしてもらい、分からしてもろうて、その分からしてもらつておるとい、その実感が有り難いという心に繋がっておらなければ、分かっておるとは言えないと思うんですね。それであの分かっておるだけじゃいかん、やはりそれに有り難いというものが伴うておらなければ、これはあのう知っておるだけというだけの事でございますから、有り難いというものが伴うそこには、もうその信心は理屈じゃないということが言える訳なんですよね。だからその有り難いというものが伴う稽古しなければいけない。
 おかげを頂いとってもそれが有り難いと感じられないってていうのは、それまでなんですからね。だからおかげではないと普通から見ても思うても、本人はおかげだなぁと感じいておるのですから、そのうそこ辺の所が大変信心は微妙な所だとこう思いますね。今日はあのう丁度上野さんの今度の学院の入学試験が、おかげで無事に合格したという合格通知を今日頂きましたから、親教会に愛子さんを伴いましてからお礼にでました。
 だから「私今から行くけんで愛子さんに、そう言うてきてくれんの」というてあの呼びにやつたのとあのう昼頃から、久富さんという方が参つて来たのがー緒でございました。娘さん自動車で送って来とりましたから、なら貴方にあのう乗せて行ってくれっちゅうてから、教会まで送って頂いたんですよね。そういう中にですやはりこりゃなら愛子さんも感じたじゃろうと思うんですけれど、神様のそのこうやっておかげの中に、例えば自分の学院行きと言う事だけの事ではなく、全てがあるんだぁと。
 こうして合楽で信心の稽古さしてもらやぁ、いうならば親先生のお祈りの中に、こうしていつもあるんだなぁという実感を、まぁした事であろうと思うのです。私自身もそれを感じるのですからね。ならそれから私お礼に出ましてから、帰りにも歯医者に行くもんですから、そのう待っている間があるから、送って上げようといわんばかりに申しましたけれど、いやぁもう帰りは私はいいと言うて断わりましたんですけれども。
 お礼を済まして帰るなら帰りにも誰かそれに便乗さして下さるような、おかげを頂かなければおかげじゃないと言った様な思い方があるですね。だからもちろん私は帰りは歩いてと言うかバスで参りましたた。それからあのう快速が来る急行がございました。ですからその急行の後にはもう普通バス待つたらいいんですけれども、私あのう急行に乗せてもらった、常持から歩いて帰らせて頂いた。善導寺からバスの停留所まで、それから常持からここまで歩かせて頂いて。
 まぁ本当に歩き道々愛子さんに話した事ですけれども、本当におかげだとこう思うんですね。中々私よう歩きゃしませんから天気の良い日に、歩かせて頂くということが有り難い。もう片ー方にははっきりおかげであるということを分からせて頂きながら、片ー方ではこれはおかげではないとか言う様な思い方の中にね、もうそのウ実感が崩れてしまう様な事ではいけません。もうどちらもおかげなんですよ。けども確かに私共はそのまぁだ実感がなかなか感じ切れませんから、神様のご演出がね。
 例えば行きがけにはちょうどあの時間で、いうなら普通自動車でも参つて来る人は無い位なんですねえ。もう昼過ぎでしたかねちょうど一時ごろだつたでしょう。ー時ちょつと前ぐらいだつたでしょううか、そこへちょうど偶々あのうお参りしあわせて来る、おかげだなぁ帰りも又おかげだなぁ、いやむしろ帰りはおかげだなぁと私は実感して、帰つたのですけれど、さぁ上野さんはどうだっただろうかとこう思うのですけれどもね。あのうほんとにここは理屈じゃないです。
 いうもうどこの端からでも有り難いというものを吸収してと、こういわれますけれども吸収しようなんて、もうおかげの中にあるのですから。やはりそれを素直におかげと感じれる所まで、信心をねいうならば分からないかん、高めていかないけんという事になります。本当うにタイミングようおかげ頂く、はぁおかげと言わなおれれんのですけども、反対にタイミング悪くという時にもです、確かにご神意があるのでございますから、そこん所を有り難いと分からして貰える、信心を目指さないけんと思うですね。
   どうぞ。